春になると思い出す、ちょっと苦しい出来事。
二年前、長男が初めて喘息発作を起こし入院した時のこと。
その日は筍掘りのイベントに参加していて、朝から長男は咳がちょっと多かった。
元々アレルギー性鼻炎があり、咳・鼻水が日常的にあった長男。
私は風邪かな?としか思っていなかった。
筍掘りから帰ってきてからも、少し咳が続いていて
夜寝る時になると咳込みが激しくなったけれど
日曜だったので熱もないし翌日朝に小児科受診すれば良いかな
と、すごく脳天気に考えていた。
寝かしつけてしばらくして、
長男が「苦しくて眠れない」と泣きながら起きてきた。
横になってもらうと、呼吸が明らかにおかしい。
息を吸った時に肺がへこみ、お腹が膨らむ。
呼吸の時にヒューヒュー音がする。
今思うと完全に喘息の発作、しかも重度の発作なのだが
当時の私は喘息について何の知識もなく、それが喘息の発作だということも
喘息で亡くなる人が居るという事実すら何も知らなかった。
夜中だったがいつもと明らかに違う様子に、
急いで小児の救急病院に車を走らせる。
救急受信する時は、事前に看護師さんに心拍や血中酸素、
体温、現状の様子を診てもらいその後の診察の順番が決まる。
事前の診察を終え、モニターに映る我が子の名前の横に
「緊急」という赤い文字が表示された時から、私は怖くて仕方がなくなった。
すぐに医師の診察を受け、初めて長男の症状が「喘息発作」なのだと知った。
医師に、「このまま緊急入院します。」と言われた時は
頭が真っ白になってしまった。
長男はベッドに寝かされ酸素マスクをつけられ、点滴をされる。
いつも痛みに弱くて泣き虫の長男が泣かない。
今思うと点滴の痛みよりも呼吸が苦しかったんだと思う。
長男はそのまま集中治療室に入った。
集中治療室に入った長男はコロナの検査もし、
その結果がなんと陽性!面会もできなくなってしまった。
医師から「もしもの時はこんな処置をしますよ」という内容の同意書を渡され
サインするしかない自分の無力さに涙が溢れる。
病院からの帰り道、行く時は隣にいた長男が
そこに居ない事が切なく、このまま長男に
会えなくなってしまうんじゃないかという不安と恐怖
それから無知すぎた自分を責める気持ちが抑えきれず
涙が溢れて止まらなかった。
長男がもしも死んでしまったら私のせいだ。
なんで喘息について知らなかったんだろう。
知ろうとしなかったんだろう。
どうしてもっと長男の様子をよく見てあげられなかったんだろう。
後悔ばかりがぐるぐると頭の中に渦巻く。
ずっと一緒に過ごしてきた長男。
寂しがり屋で私が次男出産で入院した時は毎日泣いていた長男。
集中治療室で泣いていないか?寂しい思いをしていないか?
苦しんでいないか?…生きてくれているのか…
集中治療室に入っている間はこちらから連絡はできないため
一日一回の連絡を約束されていたけれど
緊急連絡があったらどうしよう!!と不安でしかたなく
ずっと携帯を握りしめ泣きながら過ごした丸二日間。
家族には申し訳なかったけれど、そんな風にしか過ごせなかった。
長男が生死をさまよっているかと思うと生きた心地がしなかった。
緊急入院から三日目、やっと医師から
普通の病室に移り、面会ができるようになることを知らせる連絡がきた。
連絡を受けてまた嬉しくて泣いてしまった。泣いてばかりだ。
さっそく絵本を何冊かと、長男がいつも一緒に寝ているぬいぐるみを持って面会に行く。
私の顔を見るなり泣き出す長男。
長男の顔を見て、心底ホッとした。…生きてた!!
「よく頑張ったね、苦しかったね、生きていてくれて良かった!
生きていてくれてありがとう!!ごめんね。ごめんね。」と泣きながら抱きしめた。
まだ呼吸が完全には戻っておらず、咳き込みやゼイゼイがあるとのことで
そこから二日間は経過観察のため入院。
もう退院できます、と連絡を受けた翌日に迎えに行った時は
いつも通りのニコニコ笑顔で病室で待っていた。
車での帰り道、いつも当たり前に一緒に居すぎて気づかなかったけれど
長男の存在の大きさ、健康で一緒に居られることのありがたさをめいっぱい胸に刻んだ。
怒ってばかりの毎日だけど、この気持ちはいつでも心に留めておきたい。
怖かったけれど何気ない日々のありがたさが身に染みた春の出来事だった。
あれから二年。発作を抑える薬のお世話にはなっているけれど
発作の頻度はかなり減り
恥ずかしがり屋で寂しがりやな性格も積極的になって
運動会ではリレーのアンカーに選ばれるくらい体力も付いた長男。
生きていてくれてありがとう。
キミのことが大好きだよ。
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